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2009年8月27日12時2分                                   ソーシャルブックマーク

写真:20年前に再建された清洲城天主閣20年前に再建された清洲城天主閣

写真:出土した清須城の石垣を説明する鈴木正貴さん=いずれも愛知県清須市、斉藤写す出土した清須城の石垣を説明する鈴木正貴さん=いずれも愛知県清須市、斉藤写す

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 武力と武力をぶつけ合うだけが戦場ではない。知力と話術で渡り合う交渉の場もいわば戦場だろう。

 織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」から25日後の天正10(1582)年6月27日、尾張の清須城(愛知県清須市)で、信長の後継と領地の分配を決める会議が行われた。世に言う清須会議である。

 織田家の家督は、信長の次男信雄と三男信孝が互いに譲らず、信長の孫で3歳の三法師(長男信忠の子)が継ぐことに。領地の分配では信雄は尾張を、信孝は美濃(岐阜県)を相続、三法師は安土城に入ることが決まり、城が修復するまでは信孝が身柄を預かることになった。

 さらに、重臣の柴田勝家と丹羽長秀、明智を討った羽柴秀吉、乳兄弟の池田恒興(母親が信長の乳母)の4宿老が誓紙を交わし、合議で政務を行う体制を定めた。

 会議の開かれた清須城は現存しない。三層の天主閣をもつ現在の「清洲城」は、平成になって建造されたものだ。清須城の発掘調査を担当した愛知県埋蔵文化財センターの鈴木正貴さんは「会議当時の清須城がどんなものだったのかわかっていません。会議の後、五条川の反対側(現在の清須古城跡)に信雄が大規模に建て直したものは、10トン以上の瓦も出土しているので、今のような立派な天主閣もあったことでしょう」と話す。

 なぜ、清須が会議の場に選ばれたのか? 鈴木さんは「尾張の中心であったこと、織田家にとって特別な場所であったことが理由では」と推測する。清須城は信長が桶狭間で今川義元を討った時に出撃した城であり、城下は名古屋に城が建てられる慶長15(1610)年ごろまでは、尾張の中心地として栄えた。

 テレビや小説などで描かれる清須会議の場面では、信孝を支持する勝家に対し、秀吉が自分の発言権を強めるために三法師を擁立、腕に抱いて各大名の上座に現れ、一堂がひれ伏す。だが、これは後世の書物をもとにしたもので、日記や古文書など一次史料には出てこない。

 例えば8月11日付の秀吉の長秀あて書状では、秀吉と信孝の関係は険悪ではない。織豊史に詳しい加藤益幹・椙山女学園大学教授は「会議の時点で秀吉の立場は中立だったと思われる。しかし、三法師を安土に移さない信孝との関係が悪化して信雄に接近。11月1日付の徳川家康重臣への書状では、勝家を除く3宿老で信雄を家督にすえたことを伝えている」と説明する。

 清須会議の合意はわずか4カ月で空中分解。信雄・秀吉対信孝・勝家の武力衝突は必至の状況となる。(斉藤勝寿)

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